過去に何を考えていたか。今の「笑顔天然流」にたどり着いた過程を記します。
知識を捨てた十代~無理して覚えなくても記憶は残る。
学校へ通う頃は学びます。奨励されたのが予習と復習。その時に自分はどのように生きたいか「おぼろげ」に感じます。
内宇宙で産まれた思いは「思想」となり、哲学や宗教を参考に一番大切なのは何か考える。やはり「慈悲と慈愛」ですか。なんとなく、このふたつを感じる。
さて、世間を見回すと知識が豊富な方は多い。しかし、辞書を開けば分かる事を並べ立てても興ざめでしょ。それで、覚えるよりは書かれたのを持っておけば良いと考えた。無理して覚えることはない。記憶に残るのは残る「予習と復習」をしていたら大丈夫。
これは今の時代に携帯電話でweb観覧できるようになって便利になったと実感する。
知識より人間として「どうあるべきか」を考え続けていた十代です。
人間とは何者か?~色々・様々な社会を眺めた二十代。
世の中には自分の仕事や仲間と関わる世界しか知らない時は多い。変化を求めた二十代は環境の中で変わる人の姿と変わらないモノを感じる。
人間として共通するのは「欲望」「幸せを願う気持ち」そして「自己表現したい思い」
哲学や宗教では解決されない悩みを持つ方も多い。それは「哲学や宗教」で規則など何かに縛られるから、新たな苦痛が生まれるわけ。
自由といっても我儘だと他人の自由を邪魔する。人間は相手より優位に立ちたい思いも強い。これじゃあいつまでたっても満足できない。
二十代の頃は思考を「なにかひとことで表わせられないか」
とさがしていた。
三十代は悟りながら自己表現を追求する。
どこにいても人間のやることは同じと感じる。「悟り」とはいえないが、ある部分で「完全じゃないのが人間」と納得している。
三十代は他人より自己表現を本格的に追求していくことになる。
ここで問題は人間関係の修復を考えてない。考える余裕も無かったと言える。
十代・二十代のまとめとして、これからの人生を決める時期になる。
琉歌や天然自然を重要なキーワードとして捉えて四十代へ続いて行く。
雰囲気だと決めた四十代~誰のための自己表現かを考える
ある方が「争いも良い雰囲気をお互いに求めれば収まる」と御話しなされた。
これだ!
私がさがしていた「ひとこと」は雰囲気です。
お釈迦さまやキリストも「良い雰囲気」で生きることを教えている。
あの世が何とか決まりごとが何とか、これは信じさせるための潜望鏡。
良い雰囲気を求めれば自然と慈悲とか慈愛は心に生まれてくる。
さて、十代からの思想は形ができた。あとは自己表現。
他人の笑顔を見るためには何をするか。良い雰囲気を作る生き方で良い。
自己表現で可能か。否、そうじゃない、と誰かがささやく。
自分のため、だと幼年時代を思いだした。新しい言葉は未だ見つけてない。
新し言葉は文章修行の果てにある自然体だと理解するのは五十代になる。
詩は言葉と感じる五十代
美辞麗句や難しい文字を並べても気持ちは晴れない。もっと叫べ、と誰かが呟く。
それなら単純に話し言葉で良い。それが「生き方」で良い雰囲気に通じる。
思考と自己表現が一体となる。
ただ、文章でどこまで表現できるか。最終的に歌うしかないか。音程とリズムを楽器に合わせるのは無理だが。
ポエトリーソングの先にあったスポークンワードポエトリーを知るのは六十代。
六十代~迷うことのない人生
曲をかけて朗読する形を実行する。これがスポークンワードと知るのは後日。
これなら思想を表現する形も可能性がでてくる。
良い雰囲気を作る「笑顔天然流」と「スポークンワードポエトリー」そして「現代琉歌」がこれからの生き方の主流になる。
つまりライフワークとして3項目があるわけ。
幼いころからの夢は叶った。これから先の夢は全世界を包む慈しみ